「媚びる」と「合わせる」の違い

相手に同調することは、人間関係、特に接客の中では必ず出てくる行為だ。しかし、同調も「媚びる(こびる)」までいくと、相手にとっては不信感になったり、ハナについたり、最終的には自分の存在意義を失ったりします。
 

媚びるとは

そもそも、相手や世間に同調しない(あまりしていない)人というのは、「自分はこれが素敵だと思っている・正しいと思っている」という信念があって、それを他者や世間と間で刷り合わせないし、他人の目を気にもしないということだ。
 
この前提に立って「媚びる」を定義すると、
①自分の意思の中心(コア)が希薄で過度に相手に同調する。
②相手や世間の目を気にして、相手に気にいられることを最優先にする。
③気に入られようとしていることを相手に悟られてしまう。
 
この条件を具備すると「媚びている」という状態になるのではないでしょうか
 
 

合わせるとは

媚びると同じように使われがちなのが「合わせる」ということだ。
 
「媚びる」と比較して「合わせる」を定義すると、
①自分の意思はある。
②相手に気に入ってはもらいたいので、相手の意見や希望を最大限に聞き入れる(刷り合わせる)が、自分のコアを壊してまで気に入って欲しいというわけではない。
③気にいられようとしていることを相手には悟られない。
 
ということになる。
 
株式会社創寫舘(そうしゃかん)
 
 

ごっちゃで語る人も多い

合わせるということは、接客業ではもちろん、人間関係では避けられないと思います。最近思うのは、レベルの高い経営者であったりクリエイターほど、この線引きを意識的に引いている。この線引きというのは「コアを揺るがすような媚び」と「柔軟な経営や制作をするための合わせ」の間の線引きだ。
 
とかく「こだわりが強い」という印象のフリーのクリエイターさんでさえも、実力が高い人ほど、相手に合わせることの必要性を経験の中で学んでいて、媚びるまではいかないが、あわせられる妥協点をちゃんと見出している。逆に若手の経験不足のクリエイターや経営者ほど、相手や世間の流れに対して「合わせる」必要がある場面でも「ブレたくない」と考え、最低限の「合わせる」という行為さえも嫌がるようです。
 
おそらくそれは、コアが未成熟だったりどこにコアがあるか、まだ理解できていないのだろう。理解できていないから、相手や世間に対して譲歩できるラインが分からず、線引きができず、媚びると合わせるがごっちゃになって、両者を「ブレ」という定義でひとくくりにしてしまう。
 
 

一人では生きられないし食べないといけない

どんなに立派なことを言っても、人間は一人では生きられないし、食べていかないといけない。これに異論を唱える人はいないでしょう。そうなると、時代や相手との刷り合わせが必要だし、それを仕事としてやらないといけないということになる。でも、「媚び」と「合わせ」をごっちゃに考えて柔軟性を失ったり、コアを失ったりすることは危険です。
 
物事はシンプルなほうがいい。でも、シンプルは危険でもある。何をシンプルに把握して、何を細かく把握するのかを選別することが大切だ。この「媚び」と「合わせ」の線引きは、シンプルにできないと思っている。なぜなら、個人や会社の存在価値にかかわるからだ。枝葉の話ではなく幹の話。そんなことを思ったりしています。